2012年 10月 12日
ルマー・キタ 普通について? |
参加者8名。
アドラー心理学を学ぶ仲間の中では、時々「普通であることの勇気を持とう」と言うことがあります。
親たちは子どもにむかって特別であったときだけ認めるという育児をする傾向があります。よく勉強ができたとか、何かで人より特別に能力を発揮したとか、子どもは特別のことをしたときに注目されるので、自分は特別の人でなければならないと思い込んでしまう傾向があります。ところが現実は、自分が特別な存在であるということは難しく、その他大勢の一人であるというのが通常の状態です。もし、その他大勢の一人であることを認めることが出来なかったら、努力して特別な存在になるか、逆に自分のやるべき課題を放棄して普通ではない状態に陥るしかありません。つまり、特別な存在であることはとても難しいことです。
もっとごく普通に毎日を暮らしていることが、とても素敵なんだということがわかれば、人生をもっと楽に暮らすことができるのではないでしょうか。
この「普通」は「特別」との対比で定義して使っていますが、今日のルマー・キタの事例では「普通」と「普通じゃない」という対比で定義して、「普通じゃないことは許容出来ない」という意味の言葉の使い方をしていました。
事例の内容は書きませんが、人が感じる「普通」はその人によってそれぞれ違います。私にとっての「普通」は、ある人にとっては「普通」でないかもしれません。もし、親と子や夫婦でそれぞれの「普通」に大きな違いがあると、不幸の原因になる場合があります。夫婦の場合は、喧嘩して調整するか、上手な自己主張で理解し合って調整するかは、それぞれの夫婦の有り様でしょう。それが親子の場合は、親が許容範囲を広げて子供の成長を見守る気の長さが必要かもしれません。子供はいろいろ試しながら、自分の生き方を探しつつある成長過程なのですから。
私は「普通」の許容範囲を広げようという意味で、今日は「どちらも普通でしょ」という言い方をしました。
昔、私は近くの病院で行われていた「不登校の子供を持つ親の会」というのにアドバイザーとして参加させていただいていた時代がありました。その会に参加されていたお母さんから、私は次のようなことを言われたことがありました。
その息子さんは中学生の頃、いつも私の息子と連れ立って学校に通っていたそうです。そして、息子さんが朝、私の息子を誘いに来た時、「まだ寝てるから、先に学校へ行ってください」とよく言われたことがあったのだそうで、そのことを聞いたお母さんは「両親が学校の先生のはずなのに、(ちゃんと子供を躾けない)変な親だなあ」と思っていたそうです。普通じゃない親と見られていたのでしょう。その当時、息子さんは親のことをよく聞く優等生でしたから、私の家庭の子育ては失敗していると見られても仕方ありません。でも、高校生になるとその優等生は学校へ行かなくなりましたから立場は逆転してしまいました。
当時のことについて、私はそんなことがあったかもしれないという印象しか持っていませんでした。つまり、学校に遅刻するかどうかは本人の課題で、先生に叱られるという体験をするもよし、自分の課題は自分で処理する自立した人間になってもらいたいという姿勢で、朝の起きる時間については息子に細々と言いませんでした。息子は魚釣りに行く時は、早朝に自分で起きて出かけましたし、肝心なことはきちんと出来るだろうということを私は信頼していました。ですから、私の家庭の子育ては我々夫婦にとって普通のことです。
ところで、そのお母さんは息子さんが通信教育で高校を卒業するのを気長に見守ることにし、結局は私の息子より早く有名大学に合格しました。お母さんは学校へ行かないことも「普通」のこととして、許容範囲を広げられたのです。
私の言いたいことは、親子関係がよければ、子供は一番よい生き方を見つけるだろうということです。ですから、子供がつまずくことがあっても、気長に見守りたいものです。
私は自分の母親から「子供がありがとうと言うように躾けなさい」と言われたことがありましたが、子供に「ありがとう」と言わせようとしたことはありません。しかし、息子は自然に「ありがとう」という言葉が出ます。家庭に家事労働の分かち合いと協力があり、親が「ありがとう」という言葉を使っていれば、子供からも自然に「ありがとう」という言葉が出るでしょう。それこそ心からの「ありがとう」ではないかというのが私の考え方です。しかし、古来から「形から入れ」という考え方もあり、「ありがとう」と言わせるのも、それぞれの「普通」かもしれません?
アドラー心理学を学ぶ仲間の中では、時々「普通であることの勇気を持とう」と言うことがあります。
親たちは子どもにむかって特別であったときだけ認めるという育児をする傾向があります。よく勉強ができたとか、何かで人より特別に能力を発揮したとか、子どもは特別のことをしたときに注目されるので、自分は特別の人でなければならないと思い込んでしまう傾向があります。ところが現実は、自分が特別な存在であるということは難しく、その他大勢の一人であるというのが通常の状態です。もし、その他大勢の一人であることを認めることが出来なかったら、努力して特別な存在になるか、逆に自分のやるべき課題を放棄して普通ではない状態に陥るしかありません。つまり、特別な存在であることはとても難しいことです。
もっとごく普通に毎日を暮らしていることが、とても素敵なんだということがわかれば、人生をもっと楽に暮らすことができるのではないでしょうか。
この「普通」は「特別」との対比で定義して使っていますが、今日のルマー・キタの事例では「普通」と「普通じゃない」という対比で定義して、「普通じゃないことは許容出来ない」という意味の言葉の使い方をしていました。
事例の内容は書きませんが、人が感じる「普通」はその人によってそれぞれ違います。私にとっての「普通」は、ある人にとっては「普通」でないかもしれません。もし、親と子や夫婦でそれぞれの「普通」に大きな違いがあると、不幸の原因になる場合があります。夫婦の場合は、喧嘩して調整するか、上手な自己主張で理解し合って調整するかは、それぞれの夫婦の有り様でしょう。それが親子の場合は、親が許容範囲を広げて子供の成長を見守る気の長さが必要かもしれません。子供はいろいろ試しながら、自分の生き方を探しつつある成長過程なのですから。
私は「普通」の許容範囲を広げようという意味で、今日は「どちらも普通でしょ」という言い方をしました。
昔、私は近くの病院で行われていた「不登校の子供を持つ親の会」というのにアドバイザーとして参加させていただいていた時代がありました。その会に参加されていたお母さんから、私は次のようなことを言われたことがありました。
その息子さんは中学生の頃、いつも私の息子と連れ立って学校に通っていたそうです。そして、息子さんが朝、私の息子を誘いに来た時、「まだ寝てるから、先に学校へ行ってください」とよく言われたことがあったのだそうで、そのことを聞いたお母さんは「両親が学校の先生のはずなのに、(ちゃんと子供を躾けない)変な親だなあ」と思っていたそうです。普通じゃない親と見られていたのでしょう。その当時、息子さんは親のことをよく聞く優等生でしたから、私の家庭の子育ては失敗していると見られても仕方ありません。でも、高校生になるとその優等生は学校へ行かなくなりましたから立場は逆転してしまいました。
当時のことについて、私はそんなことがあったかもしれないという印象しか持っていませんでした。つまり、学校に遅刻するかどうかは本人の課題で、先生に叱られるという体験をするもよし、自分の課題は自分で処理する自立した人間になってもらいたいという姿勢で、朝の起きる時間については息子に細々と言いませんでした。息子は魚釣りに行く時は、早朝に自分で起きて出かけましたし、肝心なことはきちんと出来るだろうということを私は信頼していました。ですから、私の家庭の子育ては我々夫婦にとって普通のことです。
ところで、そのお母さんは息子さんが通信教育で高校を卒業するのを気長に見守ることにし、結局は私の息子より早く有名大学に合格しました。お母さんは学校へ行かないことも「普通」のこととして、許容範囲を広げられたのです。
私の言いたいことは、親子関係がよければ、子供は一番よい生き方を見つけるだろうということです。ですから、子供がつまずくことがあっても、気長に見守りたいものです。
私は自分の母親から「子供がありがとうと言うように躾けなさい」と言われたことがありましたが、子供に「ありがとう」と言わせようとしたことはありません。しかし、息子は自然に「ありがとう」という言葉が出ます。家庭に家事労働の分かち合いと協力があり、親が「ありがとう」という言葉を使っていれば、子供からも自然に「ありがとう」という言葉が出るでしょう。それこそ心からの「ありがとう」ではないかというのが私の考え方です。しかし、古来から「形から入れ」という考え方もあり、「ありがとう」と言わせるのも、それぞれの「普通」かもしれません?
by good_natsume
| 2012-10-12 22:44
| 心理学&子育て